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国恩記(こくおんき)の人々

<外部リンク> 印刷用ページを表示する 掲載日:2016年4月1日更新

 今から250年ほど前のことです。宿場町だった吉岡(現宮城県黒川郡大和町吉岡)では、長い間続いた凶作などのため、月に6回開かれる市へ来る人の数も減り、生活に困る人が多くなってきました。また、吉岡を出て行く人が増えて、空き家が目立ってきました。

 当時、吉岡の人々は伝馬役といって、街道(奥州街道)を通る大名行列(参勤交代で、仙台藩領内の奥州街道を通過する大名は、伊達藩のほかに盛岡の南部藩、弘前藩、松前藩などがありました。)のために馬をひいたり、荷物運びの仕事をしたりしなければなりませんでしたが、その仕事もたいへんだったのです。(町役として伝馬役を負担していたのです)
また、吉岡宿は奥州街道の宿駅だけでなく、中新田、岩出山を経て出羽国(秋田県・山形県)に至る街道の宿駅でもありました。両街道が合流するため、吉岡宿は、仙台藩では大きい方の宿場町になり、それだけ宿駅の負担も大きくなりました。

 そんな中、「このままでは町の将来が心配だ。何とかしてこの町の人々を苦しい生活から救い、宿場町を建て直したい」と考えた人々がいました。菅原屋(菅原)篤平治(すがわらやとくへいじ)、穀田屋(高平)十三郎(こくだやじゅうざぶろう)、穀田屋(高平)十兵衛(こくだやじゅうべい)、浅野屋(遠藤)周右衛門(あさのやしゅうえもん)、早坂屋(早坂)新四郎(はやさかやしんしろう)、穀田屋(高平)善八(こくだやぜんぱち)、遠藤寿内(えんどうじゅない)、千坂仲内(ちさかちゅうない)、遠藤幾右衛門(えんどういくうえもん)の9人です。

 菅原屋(菅原)篤平治は、お金を仙台藩に出資すれば、利息分がもらえるので町の人々にお金を分けることができると考えました。そして、穀田屋(高平)十兵衛とともに仲間と協力を呼びかけました。9人はお金を出し合い、足りない分は自分たちの財産を売り払い、命がけで借金をし、家族全員で働きにでることも覚悟して、千両もの大金を用意することにしました。9人は方々から借金をし、6年もの年月をかけてやっと千両を用意しました。

 それから、利息分がもらえるよう仙台藩に何度も何度もお願いし、その約束を取り付けてから千両を仙台藩に納めました。そして利息分のお金をもらうとそのお金を町の人々に分けました。仙台藩では9人の行いに対し、特別にほうびのお金をあたえましたが、9人はそれもまた自分のことには使わないで町の人々に分けました。

 町の人々はたいへん感謝しました。そして、9人に対する感謝の気持ちをいつまでも忘れないために、「国恩記」という記録が残されました。吉岡の龍泉院で住職をしていた栄洲瑞芝(えいしゅうずいし)というお坊さんが書きました。 この吉岡の救済事業は純粋に吉岡の人々から出た運動で、仙台藩も初め反対しましたが吉岡の人々の熱意に動かされ藩も認め曲折などもありましたが幕末まで続いたのであります。

 平成15年3月には、9人の行いを人間の美しい心の記録として、また郷土のほこるべき出来事として後の世に長く伝えていこうと九品寺(吉岡)に顕彰碑が建てられました。

「わたしたちの大和町」改訂版(平成24年3月大和町教育委員会発行)より引用